好き嫌いの話(効き目の続きかも

体力の続く限り書いていこうと思う。

人を選ぶようなタイトルだしそこまで面白い文でもない。

ただ、こういう考えの人が居るという事、せっかくブログとして日々苦いけど毒にも薬にもならない事を書いている以上、残したい。

 

好き嫌い。

得手不得手。

プラスとマイナス。

 

今日はこんな話をしていこう。

 

 

誰しも、好むもの好まないものがあると思う。

食べ物でも生き物でも思想でも敢えて挙げないだけでいっぱいある。

 

私も食べ物の好き嫌いが多かったのだが、歳をとったせいか段々と減ってきた。一時期はトマトが食べられなかったのだが食卓に出れば食べるし昼食のサラダに入っていても残さず食べる。

このブログを読んでいる方なら伝わるであろう、効いてきたのだ。

好物になった、というわけではないが目にしても落胆することもなく一食材、一栄養として食す。健康を気にしているという面も少なからずある。

虫全般も苦手なのだが、カマキリは可愛く思えてきた。飼いたいとは思わないが目の前に現れようとエンカウント音が脳内に鳴り響く事もなく。

未だに俊敏な動きをするものは苦手だが、これは効くようになるかは果てしない気がする。

 

誰しも、好き嫌いがあってもいいと思う。全てを好きになるには寿命とエネルギーが足りない。触れられないものがあって当たり前だと思う。

 

問題は、好き嫌いを過剰に押し付ける人がおびただしいほど居る事だ。

 

100歩譲って好きを押し付けるのはまだいいかもしれない。それでも毒になるか好きが溢れるか危ないところだがそこには悪意がない。それが厄介な事もあるから一概には言えない。

 

ただ嫌いを押し付けるというのは誰も得しない。

群集心理だとかもあるかもしれないが私は頭が乏しいのでその辺りは割愛。

これが苦手だとか嫌いだとかを自身に貼るなりこういった自身の場所に書くのは別にいいと思う。

ただ、それを不特定多数に押し付けたり声を大にして周りに自粛させようとするのは違う。

 

私は○○が嫌いです!自粛してください!!

○○を私に見せましたね!?どうしてくれるんですか!?

 

わかったよ。その上で、知らねーよ。

こんなんでいいと思う。

ただでさえ好きなものや推しに時間使いたいはずなのにそんな相手の嫌いに付き合うのは時間がもったいない。あーそうなんですねー。推しぃぃぃぃ!!!!会いたかったよー!!!!でいいと思う。嫌いなものより好きなものに時間を使おう。

 

前回か前々回のブログで新しいスロットは云々と書いてたじゃないか、と思う人がいるかもしれない。

やるだけ無駄、と書いたかな。

 

簡単に例えると今って第12のビールみたいな状況なのね。

第1のビールを知ってるなら飲めたもんじゃないって言う人、居るんじゃないかな?

もちろんそれを人に押し付ける事はしないしクソだから話すんなとも思わない。

好きな人は好きでいいんじゃない?私は今のスロットを打つ時間を作るなら自分の食べたいものを作って食べた方が楽しいと思うから打たないだけであって。

面白くないから無くなれなんて思わない。

また面白くなるなら打つかも、ぐらい。

むしろシステムはかなり面白いよ。開発はよく考えるなーと思う。システムだけは。

 

 

好き嫌いの話に戻る。

嫌いに付き合ってる時間はもったいない。嫌いを好きに変えようとするならそれは別だと思うが、嫌い嫌い運動に付き合う必要は全くない。

興味なしでいい。好きの反対は無関心とはよく言ったものだ。

 

なんで嫌いか、どういう理由で嫌いなのかっていうのも重要だったりする。もちろん、理由があるからといって大きい声で言っていいわけではない。

 

このブログをを読んでる時やネットで何か見てる時に出てくるであろう、電子書籍の広告。

私はあれが嫌いだ。賛同を得るつもりはない。

頭ごなしに邪魔だとかそういう事ではない。

内容と謳い文句がかけ離れ過ぎてるからだ。

 

一度、広告で出てきた漫画があって、数年経ってから気になって読み始めた。(このパターン多くない?)

広告の内容はよくあるデスゲーム全面のシリアスなワンカット。アオリもそれ。

使ってる書籍アプリで初刊無料だったので読んだが、そのまま現行巻まで買った。とても面白く、最終巻までダレることなく纏められていた。

それと同時に、広告の内容と大きく剥離していた事に憤怒した。

そんな、どこにであるような謳い文句で人々が不快になる広告を出してどうするんだと。

もっと面白い、人に勧めたい部分があるだろうと。

こんな面白い、絵も人の記憶に刻めるのにウリがなぜそこなんだと、腹が立ってしょうがなかった。

 

怒りが収まると、勿体無さと悔しさが押し寄せてくる。この漫画のウリはここだ、とか数文字で表すならこうだ、などもっと広まる広告が打てるはずなのに負の感情だけで終わる可能性が高く、見向きもされないのはあまりに損だと。

そして、広告を表示する位置。

絶妙だと思う。ホームボタンはだいたい下についているしスクロールもだいたい下方向。

目に付く。誤ってクリックもしてしまうだろう。

文字通り、嫌でも目につく。

広告収入の取り方としてはすごいと思う。

 

さて、幾度となく脱線を繰り返しているが実はまだ前フリにしか過ぎないのが今回の話。

 

冒頭の方でトマト嫌いが克服されたと書いた。

これはトマトに限らず、大体のものに対しても同じことが言える。

 

好き嫌いがほとんど無くなった。

 

嫌いも、好きも。

同時に。

 

人間、ある程度追い詰められると思考放棄したり、趣味でやってるものに一切の喜怒哀楽がなくなる。

全てがどうでもよくなる。

前職の影響で割とやられてしまい(肉体は救急車、精神はどう事故れば休めるか考えるか程度)趣味も惰性、食事も補給に近かった。

その間に行われた遠征と飲み会が本当に嬉しくて、家に帰りたくなかった。帰りの新幹線がもう収監のイメージしかなかった。

 

 

そんな状態で大声嫌いなもの宣言なんて見ても、何も感じなかった。

好きなものも大きな反応も出来ず、淡々と真顔で回収するだけだった。

 

そんな状態を経だからなのか、好きも嫌いもそういう人がいる、と割り切るようになってしまった。

自分に対して何かふざけた事をしてきても

 

あーそうなんだ。

そういう考えの人なんですね。

それで喜べるなんて羨ましいですね。

 

くらいで反発する事もなく、そのままお付き合いを終わらすようフェードアウトする。

 

嫌いを押し付けられても同じ。

何かリアクションする前に、今のあなたとは分かり合えないし考えるほど時間と体力は余らせてないと思いながらシャットアウトする。

 

本来ならツイッターも鍵を外し色んな人と交流を持った方が楽しいし、情報も入ってくるから有益なんだけど、その分不快なものも見えてくるから外す気にならない。

これ以上増やすつもりもない。

今のメンツが楽しすぎる。本当に幸せな空間。

 

これを書いてて思ったんだが、前のアカウントである人物がよく私の名前を出して茶化していた。

それに対して嫌悪感があるわけでもなく、めんどくさいとしか思わず、フェードアウトしたのを思い出した。同じやり方が面白くもないし、逆に何がそんなに面白いんだろう、なぜ私なら許されると思っていたのか、まぁそれもめんどくさくて何もしなかったけれど。

まぁ、楽しいんでしょうね。

羨ましい。

 

 

さて、好き嫌いの話。

好き嫌いがなくなりつつある現状、これはいい事なのか。悪い事なのか。

 

私は、今の状況が幸せだ。

好きなものを得て、嫌いなものを見て見ぬ振りをするか肯定しつつ遠ざかる。

 

不自由の中に自由が作れた気がする。

半閉ざされた世界で生きるのは悪いことではない。

 

 

最初はこれが大人になるという事なのかと考えたが、それだったら周りが子供ばかりになるから違うと判断。

紆余曲折書いてきたが、好きも嫌いも大いに結構。

自分の効かないものは放っておけばいいのだ。

それがストレスが満載な世の中を生きる、1つの考え方だと私は思う。

特にネット社会なんてものは揚げ足取りを生き甲斐にしてる人が跋扈しているのだから、そんなものに推しの時間を取られていたら損をする。

勝手に勝ち誇らせておけばいい。

相手にするだけ負けなのだ。

 

 

この考えに行き着くに辺り、とある人との出会いがあるがそれは別の話。

 

長々と、ありがとうございました。